今年ついに50歳になります、ということについての駄文
今年ついに50歳になります。
40歳になる時もそうでしたが、年齢が増えるだけで自分の中で何かが変わるわけでもないですね。
下手したら、自我が芽生え始めたガキの頃からずっと本質は同じままな気がします。
他人がどうかは知りません。
世間的には、年齢重ねればそれに見合った大人になっていくというのが定説ですから。
最近、テレビやネット見ていて、なんでみんな楽しそうなんだろ、やりたいことやれてるんだろ、という気持ちを少しだけ持ちます。
自分も「何か」に縛られず、やりたい事だけやる生き方したらいいじゃないかと、ふと思うのです。
でもこのブログでもずっと書いているように、自分の「やりたいこと」って何?でつまずく。
せいぜい、仕事せずに家でずっとゲームしてたりアニメ観たりして毎日過ごせればいいかかなぁぐらい。
50歳間近の大人がこうなんですから、笑うしかないです。
旅行は好きだから、海外とか出かけてみたいなとは思います。
でもお金がかかる。
何かをしたければ、何かを諦めなければならないのは、やっぱりこの世の道理なんですかね。
一つの解決策としては、仮に旅行が好きだけどお金がかかるという話しであれば、「旅行に行くこと」と「お金」を結びつけてしまうこと。
わかりやすい例としては、旅行ライターになるとか、旅行写真家になるとか、そんなのが思いつくわけですが、実際に仕事となればそれなりに大変なことも多くなってしまいそうだなと。
そういうのも含めて好きな事をやる覚悟があるか?という話しになってきて、果たして今の自分にそこまでのエネルギーあるだろうか疑問だしなぁ。
好きなもの関連で、「イタリア」が好きなんですよね。
これも、何回かブログで書いてますが。。
それは街であったり、バールであったり、料理であったり、雰囲気であったり色々。
じゃあ、イタリアに住むか?と問われれば、「お金があればイエス」という答えしか出ない。
いくら好きとはいえ、実際に言葉も通じず、生計を立てるあてもなく、日本よりは不便であろうイタリアに住むのはかなり大変だろうと想像つくし、軽い気持ちで移住したら、恐らくすぐに挫折するでしょう。
それを解決するには、お金が一番手っ取り早いですが、それがない。
「好き」の前に立ちはだかる「障害」を超える気力なりエネルギーというのは、何をするにしても必要なわけで、今の僕にはそれが決定的に欠けていると自覚しています。
でも、50歳以降の人生はこれまでと180度違った生き方をしたいと密かに目論んでいます。