Walking backstreet(裏道を歩いていこう)

Walking backstreet(裏道を歩いて行こう)

40代後半になっても自分の生き方、進む道が分からない男のブログです。「40にしても惑う」人間の悩みや日常の思考などを趣味も交えて書いています。

大雪の日でも出社する社畜

2月23日(月)の朝、アパートの外を見たら真っ白でした。
 
山陰地方は平野部で久々のどか雪となった模様。
 
ニュースでは25cmの積雪ということで、当然のごとく道路は大渋滞でありました。
 
その日は、車で通常20分で行ける会社まで、1時間かけて到着。
 
雪の日の運転は、非常に神経を使いますので披露も大きく、できるなら運転したくないけど、他の人だって出社していると思うと出ざるを得ない。
 
で、この日の夜は接待的な飲み会予定が入っていて、そもそもこれはあまり個人的には出席したくない会だったこともあり、さすがに今日の雪では中止となるだろうと思っていました。
 
ところが、中止にならず、時間を早めてスタートすることに。
 
夕方、会場まで車を運転して行ったのですが、国道にもかかわらず、デコボコに圧雪された悪路に悪戦苦闘。
 
なんで、こんな死にそうな思いしてまで飲み会に出席せにゃならんのだ?という怒りにも似た感情が湧き起こってきました。
 
これで事故したって、車が国道の真ん中で動けなくなったって、結局は自分の責任であり、同情はしてくれるかもしれないが会社として特に何かしてくれるわけでもない。
 
こんな状況でも飲み会に出かける自分は、社畜そのものなんだろうかと。
 
飲み会終了後も、なかなか代行もタクシーも捕まらず、結局は車を会場の駐車場に放置してJRの駅まで歩いて行き、それで何とか帰りました。
 
ということで、次の日はテキトーな理由を付けて休んでやりました。
 
まあ、僕の場合は自分が休んでも大して影響ないから良いですけど、どうしても行かざるを得ない人は大変だろうなと。
 
大雪の日は無理に仕事行かなくてもいいんじゃない的な、ゆるい社会になってくれないものかなぁ。

入札失敗

うちの会社が手がけている事業で、行政の発注する業務を請け負う契約をして実施しているものがあります。
 
その事業の起ち上げ責任者だったのが僕だったこともあり、また、行政との契約に関しても当時の自分が手がけた経緯がありました。
 
なので、その部署から異動になった今でも、県との契約に関することや事業の方向性などについて首を突っ込んだ状態になっています。
 
もちろん、自分としては手を離したいのですが、役員からの指令によって仕方無くという感じです。
 
で、今年も行政との契約の時期が来たので、その対応をすることになりました。
 
相手は行政ですので、当然のことですが、入札に参加することになります。
 
一般競争入札に近い形であり、談合を防ぐためにどこか参加するとかの情報はもちろん、参加者数すら分からない状態となっています。
 
色々とシミュレーションを行って、3回分の数字(だいたいの入札は3回目まで入れる事ができる)を決め、役員にも相談をし、いざ本番に臨んだのですが、、、ダメでありました。
 
入札参加した業者は、昨年の顔ぶれに1社加わり全部で6業者となっていたこともあったのですが、それよりも大きかったのが、昨年より大幅に金額を下げてきたところがほとんどだったのです。
 
その金額で受注しても赤字しか出ないはずなのに、強引に落札した印象でした。
 
どこもがうちの会社を警戒した、もしくは取らせまいとした感じもしないではないです。
 
でも、既に開札は済んでしまい、今さら何をどう言おうが結果は変わりません。
 
目の前が真っ暗になりました。
 
見立てが甘かったということでしょうし、情報不足のまま臨んだと言われてもしょうがない。
 
今思い返せば、もう少しああすれば良かった、こうしとけば良かった、いや、でも結果論だったら何とでも言えるしと、色んな思いや考えが頭の中をぐるぐる回り、ここのところ夜も眠れない状況が続いています。
 
入札に失敗したことによる余波は、その管轄業務部署の人員体制にも影響を及ぼすはず。
 
恐らくは、経費圧縮のために人員の異動に手を付けると思われますが、それをすると、再来年、また行政と契約できた時に今度はちゃんと人が戻ってきてくれるかという問題もあります。
 
実際に、現場の人間に落札できなかった件を伝えたら、やはり、誰か人が削られるんじゃなかろかという心配をしていました。
 
もちろん、役員も承知した上での金額を出しているので、自分だけの責任とは言えないはずです。
 
ですが、それはあくまで形式上の話し。
 
実際に数字を作るのは自分ですし、その根拠や推測を立てるのも僕です。
 
役員に説明したところで、役員も詳しい内容までは理解出来てないですから、僕が作った数字や資料に対し疑義や反証を差し込むのは無理な相談。
 
入札で落とせなかった責は、やはり自分にあると言わざるを得ません。
 
早く退職できていれば、もうこんなツライ思いしなくて良かったはずなのにと後悔の念にさいなまれます。
 
今回の失敗は、自分で悩む容量を超えてしまっており、処理しきれません。
 
今度こそ、退職届けを受理してもらわなければ、自分がおかしくなりそうな気がしています。
 

身の振り方をあらためて熟考してみる

部下の退職が先行したことで、自分の退職が遠のきそうな雰囲気があります。
 
もちろん、退職するのは個人の自由ですから、何がどうあろうと自分は自分という態度で退職の意思を強固に貫けば良いのかもしれません。
 
でも、自分の性格的にどうしてもそれは出来ない。
 
そこには多くの偽善的要素を含みます。
 
否定はしません。
 
後ろ指さされながら辞めるのは、やはり自分にとっても辛いことです。
 
しかし、2月末が延期になったとして、普通に考えれば次は8月末。
 
そこまでの約半年、自分のせいとはいえ耐えなければなりません。
 
様々な事業遂行や推進、部下が辞めたことで増えるであろう業務や問題。
 
想像するとブルーになります。
 
退職を強行できないのは、「自分」が無いから。
 
他人に左右される生き方をずっとしてきたから。
 
自分がしたいこと、するべき事を自らの手で選択して生きていれば、自ずと道は開けるはずなのです。
 
退職するにしても、退職してどうしたいか明確じゃないのが、その進みを遅らせているのです。
 
僕は退職して自由になりたいと、恐らくは望んでいるはず。
 
でも、自由になって、そしてどうする?というところが欠けています。
 
自由になった時に、これまで自分を鍛えることをしてこなかった人間に待っているのは、怠惰な生き方。
 
そうなるであろう事が、無意識の中で理解しているから、「退職できない理由」ばかりに目が行き、今の状態が続いているのかなぁと。
 
この閉塞感を打開するには、行動するしかないと思うのですが、具体的にどう行動して良いのやら。
 
これがやりたいんだってのがあると、そんなに悩まなくて済むんですが。
 
やりたいことを見つけるために、手当たり次第やってみるしかないですかねぇ。

隻眼の少女/摩耶雄嵩

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摩耶雄嵩氏の作品を読むのは、これが初です。
 
感想としては、正直驚いたという他はありません。
 
え?そこをひっくり返す?みたいな印象ですが、ある意味、これを超えるミステリー手法を考えるのは難しいだろうなぁと。
 (後半ネタバレあり注意)
あらすじ
二部構成になっています。
 
最初は1985年に起こる事件。
 
大学生の種田は、事故により父親を殺めてしまい、自分も死ぬつもりで山奥の栖苅村(すがるむら)というところの温泉宿に宿泊します。
 
その地は昔、龍が住んでおり、その龍を退治した特殊な力を持つと言われるスガル血族の琴折家が代々治めている土地でした。
 
主人公種田は、昔の龍だと言い伝えられる岩のところで、16歳の隻眼の少女、御陵みかげと知り合いになります。
 
知り合った翌日、種田は、伝説の龍の岩がある場所で、首切り殺人事件に巻き込まれ地元の警察から容疑者として疑われるのですが、それを見事な推理で救ったのが御陵みかげでした。
 
しかし、その後、琴折家のスガル継承者が次々と殺され、更にはみかげの父親も巻き込まれ殺されてしまいます。
 
種田はみかげと共に、この連続殺人事件の解決に挑み、ついには犯人を特定することに成功したのです。
 
ここまでが一部の話し。
 
二部からは、この事件の解決後18年が経った2003年の話し。
 
再び、種田は栖苅村を訪れることになるのですが、また、18年前と同じ惨劇が起こるのです。
 
果たして、事件の本当の真相はいかに?という感じです。
 
時代遅れ?な設定
まずもって、事件の解決にあたる隻眼の少女こと御陵みかげのキャラからして、時代錯誤的な設定にしてあります。
 
陰陽師のような服装に、天才的な推理力を遺伝的に母親から受け継いでいる探偵であり、しかも隻眼です。
 
そして、人里離れた龍の伝説が残る村、そこを代々治める名家の継承問題、連続首切り殺人事件。
 
まるで、横溝正史江戸川乱歩を思い起こさせるような設定ですよね。
 
昭和な匂いがプンプンです。
 
もちろん、第一部の時代設定が昭和だからというのも少しはあるのでしょう。
 
でも、物語の屋台骨そのものが、時代を感じさせる作りになっているのです。
 
ですが、最後まで読むとわかります。
 
それは一種のフェイクであり、作者が意図的にそうした設定を用いたのだろうと想像つきます。
 
要は、核心はそこじゃないってことですね。
 
読者も主人公と一緒になって犯人を推理
これもまた、ミステリー小説ではメジャーな形ですが、最近はこの手法をとらずに物語を展開するパターンもけっこうあります。
 
昔からの表現方法を現代作家達が、いつまで追い続けるわけはなく、常に新しい展開や手法を生み出す為に頭を捻っているのです。
 
そう考えると、この作品はどちらかというと、安易な旧態依然のやり方でストーリーを展開しており、それはそれで面白いのですが、でもそれじゃあ古めかしいなとも感じてしまいます。
 
しかし、これも意図的なフェイクというか、読者の目をそらすための誘導であることが、ラストまで読むと理解できます。
 
読みやすいけどめんどくさい
先が気になるし、テンポも良いのでサクサクと読み続けられます。
 
ただ、登場人物、特に琴折家の家族が多く、それをいちいち把握しながら読み進めるのがめんどくさいです。
 
一応、家系図は載ってるんですけどね。
 
でも、やっぱりめんどう。
 
更に、屋敷や敷地内の見取り図が無いため、事件の状況や推理の整合性を読み取るのがこれまためんどう。
 
でも、正直、そのあたりは分からないなりに読み進めてしまっても問題ないです。
 
核心はそこじゃないので。
 
 
後期クイーン的問題
ミステリ小説で「作中、探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうかその探偵には証明できないこと」を「後期クイーン的問題」と言うそうです。
 
作者が用意した真実に対し、読者はその真実を登場する探偵を介して暴こうとするのがミステリ小説の基本ですよね。
 
それは一種のゲームに近く、よって一定のルールが存在しなければ成り立ちません。
 
そして大前提のルールとして、真実は唯一無二でなければならず、いくつも真実が用意されていたら、その作品はどこにも着陸できなくなってしまいます。
 
で、これを頭に入れてこの本を読むと、犯行はスガル様以外でもやはり可能であると思われ、探偵を通して暴かれる真実は、これ一つではないのではないかと読み手は不安になります。
 
ですがこれも、作者が意図的に「後期クイーン的問題」を扱ったと想像できます。
 
用意された真実は、決して一つではないかもしれないし、それを誰も証明できない焦燥感が読者に沸き起こるのを想定しての書きっぷりなのです。
 
で、ネタバレしてしまいますと、真犯人は探偵約であるみかげ自身なのですが、自分で殺して自分でそれらしく犯人を仕立て上げるわけですから、ミステリー小説としてはかなりルール違反な手法を取ってしまっています。
 
でも、それは作者が意図してやっていることであり、その核心は「後期クイーン的問題」への挑戦だったのではと想像します。
 

まとめ

本当に犯行可能なのか、そこまでの様々な経緯に矛盾や無理があるのではないか、といった疑問も当然湧くのですが、真犯人を知った時には、そんなことはほぼどうでも良くなりました。
 
この展開を思い切ってやってしまう作者の潔さに脱帽ですし、これやっちゃったら、これを超える手法はもう出せないんじゃないの、というぐらい奥の手の中の奥の手だと思うのです。
 
そうした点で、この作品はかなり好き嫌いが別れるだろうなと思いますが、僕はかなり好きな部類の作品でありました。
 

部下の退職とついでに自分の退職について上司に相談した

管理職である僕の場合、やっぱり、部下から退職の相談を受けたら、自分の身の振り方を後回しにして部下の相談に対応しなければなりません。
 
もう少し身勝手に振る舞える性格だったら、というか、本質的には自分は本来身勝手なな人間だと思ってるのですが、なんだかんだで、他人から良く思われたいとか自分の評価が下がるような事態を避けようとしてるのです。
 
今回も、結局のところはそういうことなんでしょうね。
 
部下の退職願いなんか、先に辞めたいと思っていた自分からすれば関係ねぇ!
 
俺の事が優先だ!
 
となりたいのは山々でしたが、そうできないのが情けない。
 
これ以上、今の状況に耐えられるのか?
 
そうした不安を抱えながらも、20代の女性部下が結婚を機に退職したいと申し出ていることを部長に相談しました。
 
想像通り、部長は困った顔をして、「何とか目一杯(正式に結婚するまで)勤め上げてもらえないのか?」という返答でした。
 
もちろん、僕も彼女に対してはそのように留意したし、彼女の業務の特殊性や後継者の問題があることについても話しました。
 
2月末、3月末の退職が希望でしたが、まだ説得する余地は残されていそうなので、再度、部長の意向をこちらから伝え、なんなら部長も同席して話す機会を持つこととしました。
 
まあ、ただ、聡明な女性部下からすれば、部長も当然慰留してくるだろうということは想定済のはず。
 
あまり、甘い見通しは持たない方が良さそうだなと、僕自身思ってます。
 
で、話しの流れの中で、昨年話した通り、自分も退職したいという気持ちは変わってない事を伝えました。
 
また、今自分がいる課の今後について、新役員は手を持て余している感じだし、このまま存続するのも難しいのではとも言いました。
 
当然ながら、部長は渋い顔をして、実は部署内全体の体制を本店と同じ形に変えろと指令がきていることや、でも、すぐには対応できそうもないし、その中でくろばこが受け持つ課もどうするか考えなければならないとのことです。
 
業務は以前より増えているのに対し、人員は現状維持、もしくは減っており、今のままでは事業計画も達成できないので、切り捨てる業務も検討していかなければならないと悩んでおりました。
 
そして、部長自身も定年まであと1年だから、それまで辞めるのを待ってくれとも言われました。
 
部長の立場を考えると、女性部下の退職に加え、僕自身の退職も抱え込むわけですから、そりゃ辛いよなぁって同情してしまいます。
 
ここで、「そんなこと知らん!俺も辞めるから」と強く出られる自分だったら、どんなに楽だろうと考えます。
 
僕は、もし、自分がその相手の立場だったらと考えてしまう癖があります。
 
それは一見、すごく良さそうな事に思えるのですが、実際は、自分自身の考えや存在を無くしてしまう事にも繋がるのです。
 
今の僕は、そういう意味で「自分」がありません。
 
もしかしたら、ずっと昔から「自分」が無いまま生きてきたのかもと考えてしまいます。
 
自分の退職については、このままだとうやむやになりそうなので、再び仕切り直しが必要のようです。

緋弾のアリアAA

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もともと「緋弾のアリア」という作品(ラノベ)があり、そのスピンオフ版がこれらしいです。
 
ちなみに、僕はこのスピンオフ版のみを見ての感想です。
 
あらすじ
凶悪犯罪に対抗するために「武装探偵」、通称「武偵」が存在する世界。
 
その武偵を養成する高校に通う1年生の間宮あかりが主人公。
 
間宮あかりはEランクの落ちこぼれ生徒でしたが、彼女はSランクである先輩の神崎アリアにに憧れ、二人で一組となるペア制度、戦姉妹(アミカ)を申し出ます。
 
アリアは、彼女の願いを受け入れ、アミカとなるための勝負をするのです。
 
といった感じですかね。
 
いわゆる百合もの
ツンデレのアリアと天然落ちこぼれキャラのあかりの、友情物語という感じです。
 
二人の百合っぽい日常風景もけっこうあって、それがややダレ気味な印象となります。
 
アリア&あかり、というよりはアリアの周りとの百合描写が多く、百合ものに関心がない僕はちょっと辟易しましたね。
 
原作を知らないと辛いかも
原作「緋弾のアリア」の小説、もしくはアニメ版を観てないと、設定や世界感に置いてけぼりにされてしまう感じ。
 
物語の背景とかについて、詳しい説明があまりないまま進行するので、そういうもんだと思って観てないと辛いかもしれません。
 
あかりが実は強かったというありがちな設定
落ちこぼれ生徒のあかりですが、実は暗殺術のプロフェッショナルであったという展開は、割とよくある設定なので特に驚きはしませんでした。
 
しかしながらアリアより全然強いんじゃねぇの?というモヤモヤ感は拭えず、最後の戦いとなった点は残念であります。
 
まあ、アリアがあかね本来の強さを引き出したという役どころに落ち着かせた感じですかね。
 

まとめ

全体的に軽い作りというか、そのライト感が良い方に出ていれば良かったのですが、これについては明らかに作り込み不足でしょう。;
 
物語の展開も淡々としすぎていて、どこで盛り上がりたいのか制作側もよく分かってない印象を受けたのも否めません。
 
ということで、今ひとつの出来という感想ですかね。

 

「君の名は。」は観てないけど、批判されてる状況について。

昨年、「君の名は。」が大ヒットしたのは記憶に新しいところですが、同じ作り手であるプロのクリエイターからの評判が芳しくないという話しをちょくちょく耳にします。
 
TVのバラエティ番組内で、漫画家の江川達也氏がメッタ切りしていたり、井筒映画監督もこの作品をけなしていたりしていて、他の作品でもそこまで言われることがないぐらい、クソミソの評価です。
 
で、僕はまだ「君の名は。」を観てないのですが、それにしてもそこまで言われなきゃならんかなぁと不思議に思います。
 
映画館まで行くのが億劫(どこもそうだと思いますが、イオンに映画館があり、要はそこへわざわざ出かけるのがめんどくさい)というだけの理由で、BSや地上波で放送されれば確実に観ます。
 
確かに、今から観る人は既にハードルが上がっている状態なので、期待した割りには…、という評価もあり得るでしょう。
 
でもね、仮に内容が今ひとつだったとしても、そこまでけなすほどの評価を受けることはないのでは?と想像するのですが。
 
上記のブログ記事読んでると、もう、本当にケチョンケチョンですよね。
 
果ては、新海誠監督のパーソナルな部分へのダメだしだったりして、それって作品そのものの評価とは違う話しじゃんと思ったりします。
 
新海監督はまともな恋愛経験がないから、こんな理想主義の作品が作れるみたいな批判は、ちょっと笑ってしまいましたし。
 
なら、戦争体験がない監督はまともな戦争映画なんか作れるわけないし、人殺しの経験が無い人にはサスペンス映画は撮れないことになり、唯一撮れるのはエロ系AVしかないことになります。(セックスだけは恐らく誰もが共通している経験のはず)
 
それに、僕も新海誠監督の他の作品はほとんど観てるので、仮に「君の名は。」を観た感想が今ひとつだったとしても、「新海監督にしてはちょっと残念な作りだったね」ぐらいの評価で済むと思うんですけど、どうなんですかね?
 
それに恐らくですよ、まだ観てない僕が言うのもなんですが、仮に「君の名は。」がつまらない作品だったとしてもですよ、この世にはもっと酷いアニメ作品なんていくらでもあるはずで、でもそこへは矛先が向かず、「君の名は。」ばかりを有名クリエイターが切りまくるというのは、ちょっとお寒い感じすらします。
 
別に新海誠監督の肩を持つわけじゃないですし、「星を追う子ども」は宮崎アニメをオマージュしたつもりがやり過ぎの失敗作だと思ってますが、少なくとも「君の名は」が興行的に成功したのは事実。
 
ダウンタウン松本人志が、NHK紅白歌合戦について、「なんだかんだダメだったって言っても視聴率40%取ってるわけだから、初戦は負け犬の遠吠えだよね」、と言ってました。
 
それと同じことかなと、個人的には思いますね。
 
まあ、J-POPSと同じで売れれば何でもいいんかい、という次元でクリエイター達は酷評してるのでしょうが、少なくとも新海監督は、過去にそれなりのレベルのものを作ってる実績がありますので、「君の名は。」だって、そこそこの作品に仕上がってるはずだと僕は思ってます。
 
問題は、僕はいつ観ることができるのかって事ですね。