この10月で、ついにジャスト50歳になったくろばこです。
感慨みたいなものはありません。
でも、あと10年もしたら60歳かと思うと、そこは恐ろしいと感じています。
そのぐらい、ここ最近の月日の経つ感覚は速い。
特に40代から50歳までの10年は、あっという間でした。
なので、次の10年は更に速い相対速度を感じるであろうと。
これも相対性理論の範疇なのかわかりませんが、加齢と共に時間の感覚はどんどん加速していくように思います。
まだ若いと思っている人も、そこは気をつけて人生を過ごすべきです。
感慨みたいなものは無いと書きましたが、何気に思うところはあります。
それは、もう少し、いやもっと「自由」に生きていきたいということ。
10代や20代に思っていた上っ面の「自由に生きたい」とは、恐らく違います。
多分というか、全然違います。
若い時に思う「自由」というのは、まだ自分が何者かになれると期待していた中でのぼんやりと実像が分からない自由。
フィーリングとしての自由。
だから、「自由に生きたい」って言ってみたところで、じゃあ具体的に何をどうするのって聞かれると、答えにつまってしまう。
で、50歳になった今の自分が言う「自由」は、色んな経験やしがらみを抱えた中での、もう少し、いや、もっと我が儘に生きてみようよ、という自由。
上手く説明になっていないんですが、例えば、これ良いなとか、面白そうだなと思ったら、周りのことは考えずにちょっとだけやってみちゃうとか、今日の飲み会は気が進まないなと思ったら、相手の事考えずに断って家でゲームしちゃう自由とか。
それって、自由か?
と疑問に思われるかもしれませんが、50年生きてみて思ったのは、「自由になる」って案外、そんなものでいいのかもしれないってこと。
自分の感情や本能を客観的に見つめ、それに少しでいいから従って行動してみる自由。
社会生活を営んでいくと、どうしても、あれこれ周囲に気を遣ったり、空気を読んだり、顔色伺ったりするわけですよ。
それが自分の保身のためだったり偽善だったりと、決して正義からくるものでない場合が多かったりします。
それは仕方ないんですよ。
生き物としての防衛本能とでもいいましょうか、正と悪、名と暗、表と裏の二面性はもちろん、その二面性だけでも説明できない感情や行動というのが、人間は必ずあるわけです。
で、今この瞬間、自分は本当はどう思っているのか、どう行動したいのかという事は、これまであまり追求せずに社会性を損なわないよう生きてきました。
そんなめんどくさい事はとりあえず置いておいて、ちょっとだけ、社会性損なってもいいから、自由に、思った通りに行動してみようかなってことです。
全面的に自分の好きなように行動したら、それは只の迷惑老人だし、老害をまき散らすだけですから、そこは注意しないといけませんが。
そんなこんなで、多少、他人に迷惑をかけたり嫌われたりもするだろうけど、少しだけ自由に生きてみようと思った50歳の誕生日でした。