Walking backstreet(裏道を歩いていこう)

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40代後半になっても自分の生き方、進む道が分からない男のブログです。「40にしても惑う」人間の悩みや日常の思考などを趣味も交えて書いています。

子どもの虐待死に思うこと

東京目黒区で起こった女児虐待死で、女児自身が書いた両親への許しを請う手紙が公開されニュースとして流れてました。
 
僕には子どもはいませんが、その手紙の内容が読み上げられた時は、さすがに涙が出そうになりました。
 
なんて酷い親なんだろう、鬼畜の所業とはこのことだなって。
 
事件の証拠品ともいえる手紙を、警視庁がこのように公表するというのは珍しいことらしいです。
 
それだけ社会性が大きいと警察も思ったって事なんでしょう。
 
この報道を受けて、TVのニュースキャスターはもちろんのこと、各コメンテーターが怒りを露わにしていましたが、それは確かに当然のことだと思われます。
 
しかしながら、怒りや憤怒だけでは、こうした問題は解決されないというのも厳しい現実なんだろうなと。
 
虐待するぐらいなら、死なせてしまうぐらいなら施設に預ければいいとか、オレが代わりに育てるとか、色々と飛び交ってますが、まあ現実はには無理な話し。
 
恐らく、親による子どもの虐待を完全に無くすこと自体は不可能だと思われます。
 
それが生物学的なものなのか、社会学的なものなのかは分かりませんが、PCのバグみたいな感じで必ずどこかで生じるものなんじゃなかろうかと考えます。
 
じゃあ、虐待されている子どもを出来るだけ早い段階で救う方法を考えなければなりません。
 
それが今の日本に欠けている部分なんだろうなと。
 
児童相談所という施設があっても、子どもの虐待に関してはなかなか有効に機能していないという現実。
 
たぶん、児童相談所も各地域それぞれで、素早く対応するところもあればそうしないところもあるんでしょうね。
 
そこから一歩進んで、何故、児童相談所が有効に対応できないのかも考える必要があるのではないでしょうか。
 
諸外国はどうなのか?
 
日本の古くからの家族概念に支配されているからではないのか?
 
などなど。
 
何となくですが、日本は割と親の力が強く、子どもはその付属品というか、絶対服従みたいな空気がけっこうあって、且つ「家・家族」の事については外部が口を挟む隙がないのが現状のように思います。
 
そこから崩していかないと、つまりは我々個々の既成概念を変えるところからやっていかないと、なかなか児童虐待の問題は進展しないだろうと考えます。
 
あの悲痛な手紙を読んで涙を流したり、怒ったりするのは当然としても、それで終わってしまっては、殺された子どもも浮かばれません。
 
「子どもは社会の宝」と言うなら、社会はそれを実践として行動しなければなりません。
 
「子どもは親の専属所有物じゃありません、社会にとっての独立した個人でもあるのです」という事をきちんと示し、社会の一員としての子どもを守るためには、家族の問題であっても介入しますよという考え方が広まる必要があります。
 
そういった覚悟を持って、この悲しいニュースに怒りを抱いていますか?という話しだと思うんですけど。